風のローレライ


第4楽章 風の落葉

1 チャリティー


夜。わたしは歩道橋の上から、流れる車のヘッドライトを見ていた。
いつもなら通らない国道へ続く道。坂道を上ったり下ったりする光を見ていると、何となく心が和んだ。
曇った夜に星はなかった。でも、その方がいい。ただ一つの夜。そこに流れ込む闇はなく、わたしの中の風もなかった。

――リンドウの花言葉って知ってる?

そんなの知らない! それに、知りたくもない!

――それはね……。あなたの悲しむ顔が見たい

わたしは思わず、持っていた鞄を足下に落とした。
武本先生……。
どうしてですか?

――レベルが違い過ぎるんだよ

風の能力者……。先生はそう言ってた。じゃあ、他にも闇の風の力を使える人がいるの?
そして、先生はどれくらい強いの?
体が震えた。あのあと、駅のトイレで何度もうがいをして、何度も手を洗ったのに、なくならない。先生が触れた手の感触が……。
気持ち悪い……。
歩道橋の手すりに手を置いて、わたしは顔をふせた。

「キラちゃん!」
誰かがこちらに向かってかけて来た。それはライダースーツを着た皐月さんだった。
「バカ! 何やってんだよ! そんなとこで……」
手すりから引きはがされて、彼女の胸に抱かれた。

「心配したんだからね! あんたがここから飛び降りるんじゃないかと思って……」
「えっ? どうして……?」
「ずっと見てたんだよ。そしたら、橋のまん中でぜんぜん動こうとしないし、様子も変だったから……。何かヤバイって思ってさ、急いでバイクをUターンさせて来たんだ」
「……」

「何かあったのか?」
「……」
「言いたくないなら無理に言うことないけど……。とにかく、行こう。こんなとこにいちゃ、ろくなことないから……」
わたしは言われるまま、皐月さんに付いて、歩道橋を下りて行った。


それから、彼女のバイクに乗って海沿いを走った。
潮の香りに包まれて、彼女のしなやかなボディーラインは、まるで海の生き物のようだと思った。
街灯の光とさわやかな風が、わたしの中を透かして行く……。

帰りたくなかった。
そして、眠りたくもなかった。
ただ、ずっとこうしていたいと願い続けた。

暗い海に明かりが灯っていた。あれは……船? それは水平線の近くにあって、だんだん遠ざかって行く。
どこへ行くんだろう?
わたしも遠くへ行きたいな。
でも……。

「明日は、リハーサルだろ? あんたが帰って来ないから、耕作が心配してたよ」
そうだった。早苗ちゃんのためのチャリティーコンサート。日曜日が本番なのに……。わたしってば、いったい何をしてたんだろ?
急に現実がもどって来たような気がした。

「ハンバーガー食べようか?」
皐月さんが言った。
「えっ? でも……」
そんなにお腹減ってないと言おうとした時、グーとお腹から音がもれた。
「のどがかわいた……」
わたしが言うと、皐月さんはショップの前でバイクを停めた。

それから、二人でコーラを飲んで、バーガーとポテトを食べた。
お腹がいっぱいになると、なぜか気分も落ち着いた。

皐月さんは何もきかなかった。
黙ってわたしの隣にいてくれた。
それだけでよかった。

「シャワーを浴びたい」
わたしは言った。そう。うんと熱いお湯と冷たい水の……。
それで、ぜんぶ洗い流してしまいたい。武本の痕跡を……。


夜中だったけど、皐月さんはお風呂に連れて行ってくれた。
スーパー銭湯ってとこ。
美肌になる湯とか、泡がいっぱい出るとか、何もかもがめずらしくて、それに、シャワーもいっぱい使って、ゴシゴシこすって、いやなことみんな洗い流せた気がする。

でも、わたしは見てしまった。
彼女には胸に傷があった。脇腹や背中にも……。
悪いとは思ったんだけどつい、見てしまった。わたしにも傷があるから……。

「どう? さっぱりした?」
フロアで、イチゴのかき氷を食べながら、皐月さんがきいた。
「うん。すごくよかった。いやなことみんな忘れられそうな気がする」
わたしが言うと、彼女は笑ってうなずいた。
「私もそう思うから、時々来るんだ」
「皐月さんにも、いやなことってあるんですか?」
「そりゃ、いっぱいあるさ。誰にだって、人には言えない悩みってのはあると思うよ」
人に言えない悩みか。そうだよね。闇の風の話なんて普通の人にはなかなかわかってもらえない。前に今井や平河に話した時もそうだった。

それに、武本のことだって……。
誰かに告げ口したら、何されるかわからない。あいつは強い風の能力者なんだもん。どうしたらいいんだろう? このままじゃ、誰にも助けてって言えない。
でも、何とかしなくちゃ……。

「キラちゃんにも傷があったね」
ためらうように、皐月さんが言った。
「ごめん。せんさくするつもりじゃないんだけど、やっぱり、家族にやられたのかなって……」
「……」
「耕作が前にそんなこと言ってたから……。実は私もそうなんだよね。いくつかの傷は消えずに残っちゃって……」
「家族にやられたの?」
あのやさしそうな人達がそんなことするなんて考えられないって思ったけど、すぐにわたしは気がついた。

――お父さんが

もしかして、あの時聞いた闇の声が……。
氷にさしたスプーンは、使い捨てのプラスティック。
反射する光は、少し曇っていた。

「変に思ってたでしょ? 親父が一度も帰って来ないって……」
わたしはあいまいにうなずいた。
「あいつは暴力を振るうから、家に入れないようにしてるんだ」
「でも、前にメッシュが、お父さんはずっと箱根のアトリエにこもってるって言ってたから、別に変だなんて思わなかった」
「そう。それならいいんだけど……」
器に残った赤い汁を、皐月さんはスプーンですくって飲んだ。

「うちの親もひどかったから、いっぱい傷が残ってる。だから、皐月さんの家においてもらえて、本当に助かってる。ありがとう。親切にしてくれて……」
それは、本当の気持ちだった。
「それに、今日も、こんなにいろいろしてもらったし……。ごめんね。お金掛かっちゃったでしょう?」
田中家の人達には、本当にいろんなことを経験させてもらった。初めてのこともたくさんあって、とてもうれしかったけど、悪いなって気持ちもあった。
「いいんだよ。私もリフレッシュしたかったし、バイトしてるから、これくらい平気」
彼女は笑ってそう言った。

今日はいやなこともあったけど、皐月さんと親しくなれたことが、とてもうれしかった。
明日からまた、がんばろう! 武本なんかに負けてたまるか!
いつか、あいつの力を超えてやるんだ。
そして、早苗ちゃん……。
まずはあの子を助けなきゃ……。


だから、土曜日もちゃんと学校に行った。
武本先生は、いつもと変わらない調子で出席を取った。今日は西崎も来ている。
わたしは目をこらして見たけど、先生の周りに、闇の風はぜんぜん見えなかった。態度も普通だったし、怪しいところもない。やっぱり、あれは夢だったんだろうか? そんな風にも思えた。でも、油断しちゃだめだ。要は2人きりにならないように注意しなきゃ……。

「桑原さん」
放課後、廊下に出たところで、武本が声を掛けて来た。わたしは反射的に身を固くした。
「あれ? どうしたのかな。そんなに驚かせちゃった?」
「いえ……」
わたしはなるべく目を合わせないようにした。

「今日、保護者会の方から、寄付金として52万円が振り込まれたから、報告しておこうと思ってね」
「あ、はい。ありがとうございます」
52万円。それは大きな金額だけど、まだまだ足りない。
「僕もね、所属している会の人達に呼び掛けているから、来月にはもっと集まると思うよ」
「ありがとうございます」
わたしは先生の方を見ないように言った。

「それじゃ、明日はコンサートがんばってね」
そう言うと、先生はすたすたと職員室の方へ歩いて行った。
昨日、あんなことしておいて、今日はもう、ぜんぜん平気そうな顔してる。わたしは、にぎった鞄の取っ手にじっとりと汗をかいたっていうのに……。富田もそうだったけど、大人って何てずうずうしいんだろう?


日曜日。まだ梅雨の季節ではあったけど、その日は朝からいいお天気になった。
海の近くにある公園で開催されたコミュニティ祭には、たくさんの人が集まっていた。
そこでは、様々な模擬店やサークルの作品展示、ステージでの発表などが盛大に行われる。
わたし達の出番は昼の1時から……。それで、午前中には、プリドラのみんなと最後の練習をした。その間、ボランティアの平河や田中家の人達が募金の呼び掛けをしてくれた。

「何だかすごい数の人だね」
わたしは、こんなお祭りに来たことがなかったから、あまりの人の多さに驚いた。
「大丈夫だよ、キラちゃん。リハでもうまく行ってたんだし、練習だと思ってがんばって!」
裕也が笑ってそう言った。
「うん。わかってる。でも、やっぱり緊張しちゃうな」

そこは野外ステージだから、直接風の流れを感じることができた。
さわやかな良い風が吹いている。
客席もよく見えた。周りの人達も、お店の人も、みんながこちらを注目している。
「OK! キラちゃん、いつも通りに行こう」
メッシュが言った。リッキーもマー坊も、わたしを気遣ってくれた。大丈夫。きっとうまく行く。わたしはそう信じて目をつぶった。

始めは裕也のボーカルで2曲演奏した。それから、わたしはステージに上がり、早苗ちゃんのことをみんなに伝えた。
「これから歌う曲は、その早苗ちゃんが作った詩です。メッシュが曲を付けてくれました。一生懸命歌います。もし、少しでも募金をしてくれるという方は、ぜひ募金箱に小銭を入れてください。お願いします!」
そして、プリドラのメンバーによる前奏が始まった。わたしはマイクを握りしめると、力いっぱい歌った。


  渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
  速い水の流れの中で 凍りついた約束の羽を広げて
  ただ一人だけのあなたを

  鼓動は愛を歌う
  夜は夢を歌う
  いつかは来る本当の恋人を待ちながら
  渦潮の底で
    愛を奏でているの

  あなたが来ない悲しみに耐えるため
  わたしは幾つも心臓を飾る
  あなたに会えた喜びを思う度
  沈んだ船の悲しみを偲んでいる
  あなたはもう 忘れてしまったのかしら?
  それとも もうわたしを嫌いになってしまったの?
  何年経っても 何十年過ぎても あなたがここに来ることはなかった

  それでも 渦潮は変わらない
  心臓は動いている
  だから わたしは歌わずにはいられない
  愛する者を沈め
  奪わずにはいられない
  渦巻く水の遥か
  岩の上に吹く風の流れが途切れない限り……


歌い終わると、みんながたくさんの拍手をくれた。
夏海さんと楓さんが、ステージにかけつけて、かわいい花束をくれた。
「キラちゃん、すごくよかったよ」
「うーん。感動しちゃった」
「ありがとう」
わたしもうれしかった。

隣を見ると西崎が、二人がくれた2倍以上もある大きな花束を裕也に渡していた。でも、まあいいか。今日は特別いい日だし……。
「桑原さん」
呼ばれたので、そちらを見ると、武本先生がバラの花束を持って立っていた。
「コンサートの成功おめでとう! 君の歌、とてもステキだったよ」
そうして花束を渡そうとする。

「これの花言葉は何なんですか?」
わたしは少し身構えてきいた。
「熱烈な愛」
先生が答える。

「トゲは取ってあるから大丈夫だよ」
そう言って笑う。わたしは拒否しようかと思ったけど、みんなが見ているので仕方なく受け取った。
「ありがとうございます」
そう言うと武本は、うれしそうに付け加えた。
「そして、もう一つの花言葉。それはね……私こそが、あなたに最もふさわしい」

ふんっ! 何がふさわしいだ!
いったい何様のつもり?
引っぱたいてやりたいと思った。でも、周りには、たくさんの人がいたからがまんした。

「ねえ、キラちゃん、あれって先生だろ? 花束まで持って来てくれるなんて、いい先生だね」
裕也が言った。
「うん。すごくいい先生だよ! 本当にさ!」
遠ざかる武本の背中にも聞こえるように、わたしはわざと大きな声で言った。
「あれ? 何怒ってんだよ。きれいな花束じゃん」
わきからリッキーがのぞき込む。
「欲しいなら、あんたにあげる!」
わたしは、武本がくれた花をリッキーに押し付けた。

「何だよ? バラ嫌いなのか?」
「くれた人による!」
そう。本当に好きな人からもらったなら、それはうれしいと思うけど……。
「へえ。じゃ、おれがもらっていい?」
リッキーが言った。
「いいけど……。あんたってバラ好きなの?」
「姉ちゃんが好きなんだ。さっき、ちらっと見掛けてさ。まだ、そこらにいるんじゃないかな?」
「えっ? 来てたの? だったら紹介してくれればよかったのに……。制服のこと、ちゃんとお礼も言ってないし……」
「おれだって来てるなんて思わなかったんだ。姉ちゃんって引っ込み思案だからさ」

「おまえの晴れ舞台を見に来てくれたんじゃないの?」
マー坊が言った。
「そうかな? おれはキラちゃんのこと見に来たんだと思うな。募金のこと話したら協力したいって言ってたし……」
「そうなんだ。それじゃ、なおさら紹介してよ」
わたしはそう言ったけど、結局、その日お姉さんには会えなかった。

そのあと、みんなで募金箱を持って会場を回った。
たくさんの人がお金を入れてくれた。歌がよかったと言ってほめてくれた人もいて、すごくうれしかった。

「キラちゃん……」
みんなからはなれて一人になった時、平河が声を掛けて来た。彼も午前中からずっと募金の手伝いをしてくれている。
「あのさ、おれ、ちっとも気づかなくて……。花、買って来ればよかったんだけど……。募金した方がいいのかなって思ったんでその……花買う金もなくなっちまってさ」
「いいよ。ありがとう」
「でも……」
「あんたってやさしいんだね。わたし、平河のそういうところが……」

その時、西崎がわたしを呼んだ。
さっきまで裕也とべったりくっついていたくせに……。それでも、募金箱を持っていてくれたんだから文句は言えないけど……。
「これ、パパからの差し入れよ。そちらの方にも……」
と言って缶コーヒーを差し出した。
「ありがとう」

わたし達は通路から少しよけて、そのコーヒーを飲んだ。
「ねえ、桑原さん。さっき、裕也にも言ったんだけど、あの曲をCDにして売り出したらどうかしら?」
西崎が言った。
「CD?」
「そうよ。その売り上げを寄付金に回すの」
「うーん。でも、どうかなあ? 確かにあの詩を作ったのは早苗ちゃんだけど、歌の方はあまり自信がないし……」
「そうね。だから、もう少しましになるように練習して、きちんとスタジオで録音するのよ。どう?」
何かムカつく言い方だけど、そのアイデアは悪くないと思った。

「わかった。いいよ。裕也達はOKなんでしょ?」
「ええ。期末テストのあとから練習しようって……」
「期末? そんなの2週間も先じゃない!」
「あら、テストは大事よ。最初っからあきらめちゃってるあなたとは違って、裕也達にとっては受験に関わることですもの」
そうかもしれない。でも……。先に行けば行くほど、早苗ちゃんの命の炎が細くなってしまう。だからって、みんなの進路が不利になるようなことを強制することもできない。
「そうだね」
わたしは、飲み終った缶をもてあそびながら言った。そうよ。CDなんてそう売れるもんじゃないし、他にいくらだって募金のやり方はある。大丈夫。もうすぐ夏休みだって来るんだ。そうなれば、時間もたくさん取れる。がんばろう!

その日の成果は3万7211円。限定販売したマスコット付きのストラップとしおり。それに手作りクッキーの売り上げも含まれている。
そのマスコットのドラゴンは、マー坊のおばあさんが縫うのを手伝ってくれた。しおりのイラストは楓さんが描いてくれたものだし、クッキーはわたしも手伝って夏海さんが焼いてくれた。
みんなの協力があって今日、これだけのお金が集まった。
材料費を差し引いても3万円弱は残ると思う。

ああ、このことを、早く早苗ちゃんに教えてあげたい。
わたしは、打ち上げパーティーをするというメンバーの誘いを断って、早苗ちゃんの病院へ向かった。


平河がバイクに乗せて、病院まで送ってくれた。
「ありがと。用事がないなら、あんたも来ない?」
ヘルメットを外して、わたしは言った。
「いいのか?」
「うん。平河ならいいよ。きっと早苗ちゃんも怒らないと思う」

病室の前まで行くと、ドアは半分開いていた。
医者の白衣と早苗ちゃんのお母さんの後ろ姿が見える。もしかしてまた、具合が悪くなったのかと思ってドキッとしたけど、中から早苗ちゃんの笑い声が聞こえたのでほっとした。

「まあ、桑原さん。お見舞いに来てくれたの?」
おばさんが気づいて声をかけてくれた。
「さあ、どうぞ。入ってくださいな」
「でも……」
わたしはちらっと医者の方を見た。
「ああ。私の用はもう済みましたので……」
そう言うと、医者は病室を出て行った。それを見送るように、おばさんもあとに付いて行く。
さわやかで感じのいい先生だと思った。

「キラちゃん、来てくれたんだね。ありがとう」
早苗ちゃんが言った。ベッドに横たわった彼女は、少しやつれた感じだけど、表情は明るかった。
「どう? 調子は」
「今日はだいぶ楽だよ」
「よかった。ねえ、さっきの先生が、前に言ってた人?」
「うん」
彼女は少し頬を赤くしてうなずく。
「ほんと。ステキな人だね」
早苗ちゃんが元気になっていたので、わたしはとてもうれしかった。

「ところでキラちゃん、そちらの人は?」
早苗ちゃんがきいた。
「ああ、おれ、桑原さんの友達の平河です。すみません。急に押しかけて来ちゃって……」
彼があいさつした。
「わたしをここまでバイクに乗せてくれたの。だから、連れて来ちゃった」
「バイク? それじゃあ、高校生なんですか?」
早苗ちゃんがきいた。
「はい。宮坂高校の2年です」
「宮坂? それじゃ、頭がいいのね。わたしもできれば宮坂に入れたらいいなって思ってるんだけど……。とても無理だと思うの。だって、あんまり勉強できないから……」
早苗ちゃんが言う。
「おれ、頭なんてよくないっすよ。入れたのはまぐれっていうか……。でも、早苗さんなら、きっと受かりますよ。中1なのに、あんなにすばらしい詩を書けるなんて……。おれ、感動しちゃいました」

「えっ? 詩って……」
早苗ちゃんにはまだ、曲のことはないしょにしていたのに……。
「もうっ! バカ! 平河、言っちゃだめでしょ? それって、わたしが言うんだから……」
「あっ、ごめん」
平河は悪いと思ったのか、わたしの後ろに引っ込んだ。

「あのね、実は今日、コミュニティ祭りで、プリドラのみんなと歌ったんだ」
わたしは平河に目配せした。
「歌?」
「うん。そうだよ。早苗ちゃんが書いた詩に曲を付けてもらったんだ」
平河が、カセットテープに録音した曲を再生した。
「あまり、音はよくないけど、歌詞は聞き取れると思うの」
会場は雑音が多かったけど、歌はちゃんと録音されていた。


    渦潮の中でいつも あなたを待っていたの
    速い水の流れの中で 凍りついた約束の羽を広げて
    ただ一人だけのあなたを……


再生が終わると、早苗ちゃんは涙を流していた。
「ありがとう」
「もしかして、イメージぜんぜん違ってるかもしれないけど……」
わたしがそう言うと、早苗ちゃんは首を横に振った。
「ううん。そんなことない。わたしが想像してたよりずっといい。キラちゃん、歌うまいんだね。ほんと、すごくうれしい。ありがとう」

テープを巻きもどすと、平河がカセットレコーダーを渡して言った。
「これ、よかったら使っててください。聴きたくなったら、このボタンで再生できますから……」
平河が言った。
「でも……いいんですか?」
早苗ちゃんがきいた。
「ああ。それ、もう古い機械だから使わなくなっちゃったんで……。でも、まだ録音や再生はできるし、小さいから持ち歩くのに便利だから……」
「ありがとう」
早苗ちゃんはうれしそうだった。

「夏にはスタジオで録音して、CDにしようって話もあるの。それまでは、ノイズだらけだけど、それでがまんしててね」
わたしも言った。
「ノイズ? でも、そこに入り込んでいる人達の声……。生きてるって感じがして好きだよ。小さい子達やお店の人の声、それに風の音……。みんなステキな音楽になってると思うの。わたしにとってはどれも宝物だよ」
早苗ちゃんはレコーダーを抱きしめて笑った。


「かわいい子だね」
病室を出て、廊下を歩いていると平河が言った。
「そうよ。本当にいい子なの。だから……」
わたしはふと足を止めた。ラウンジのところで、早苗ちゃんのお母さんと主治医の先生が話している。でも、何だか様子が変だった。

お母さんは両手で顔をおおい、涙を流していた。医者はそれをなぐさめるように言った。
「そんなに肩を落とさないでください。ああやってお友達もお見舞いに来てくれている。それにあの子達は、早苗さんの移植のための募金を集めてくれているそうじゃありませんか。まだ希望はありますよ」
「でも、時間が……。せめてクリスマスまで何とかなりませんか? あの子、毎年イリュミネーションを見るのを楽しみにしているんです。せめて、今年もそれを見せてあげたい……」
おおった手に自動販売機の赤いランプが反射する。

どういうこと? まさか早苗ちゃんは、クリスマスまで生きられないって……。そういうことなの?
凍り付いたように足が動かなくなった。

「君達……」
医者がこちらを見た。
「あら、今、飲み物を持って行ってあげようと思ったのに……」
おばさんが手のひらで涙をふいて言った。
「いえ。わたし達、もう帰りますから……。早苗ちゃんをあまり疲れさせてもいけないので……」
わたしは、それだけ言うと平河の腕を引いた。

「行こう」
平河は何か言いたそうな顔をしたけど、すぐにうなずいて、いっしょにエレベーターに乗った。
わたしも平河も、下に着くまで、何も言わなかった。
病院の外に出た時、さっと風がわたしの全身をなでて行った。

そして、駐車場まで来た時、わたしの頬に涙が伝った。
「……!」
ちくしょう! わたしは悔しかった。誰かが壊したビンのかけらを踏みつぶす。砕けたガラスが悲鳴のように胸に響いた。

制服に涙がしみる。
紺色の、てかりのあるお古の制服に……。
ステージでも、わたしはこの制服を着て歌った。
夏海さん達がかわいい服を貸してくれるって言ったけど、わたしは断った。
わたしには、これが1番似合ってると思うから……。

結果的にはよかったと思っている。リッキーのお姉さんにわたしが制服を着ているところを見てもらえたんだもの。
でも……。お金の方はだめだった。
これっぽっちじゃ、どこにも足りやしない。早苗ちゃんはもう、半年も持たないんだ。クリスマスまでも生きられないって……。ひどい……! あんなに元気そうなのに……。とても信じられない。でも……。マー坊のおばあさんもそうだった。ほんの数日前まで元気だったのに突然……。ああ、どうしたらいいの? 彼女をを助けてあげたいよ。できればもっとお金が欲しい。もっと早く、たくさんのお金が……。

「アキラ……」
平河がわたしの肩を抱いた。
「ねえ、どうしてなんだろう? 世の中って不公平だよ。ほんと、不公平だ……!」
平河の胸をこぶしでたたいて、わたしは言った。
「何でみんな、わたしの前からいなくなっちゃうの? マー坊のおばあさんも、トラも……。そして、早苗ちゃんまでいなくなったら、わたし……!」
彼はその胸に顔をうめたわたしを黙って受け入れてくれた。わたしの気が済むまで泣かせてくれた。


それから、わたし達はバイクに乗って海辺を走った。
やっぱりちがう。
わたしは思った。
平河の背中、皐月さんのそれとはぜんぜんちがう。広くて大きい。それに甘いにおいもしない。
どちらがいいというわけでもないけど、今はただ、こうしていたい……。

街灯や家の明かりや車のヘッドライトが、みんな闇に溶けて行く……。

――あなたの悲しむ顔が見たい

花びらのように散って行く明かりを見ながら、わたしは身体が震えるのを感じた。いやだ。どうしてあんな奴のこと思い出しちゃうんだろ?

――今度、僕の彫刻のモデルになってよ

白い石のイメージが空で砕ける。
「ねえ平河、あんたもなの?」
「何?」
振り返らずに言う。
「あんたも女の子の……が見たいと思ってるの?」
「風が強くて聞こえないよ。何が?」
その声は風に弾かれてぶれている。
こういうのって、やっぱまずいのかな?
平河も一応男だし……。
夜に二人っきりってさ。

でも、こいつは能力者じゃない。
あの男とはちがう。
能力者の武本とは……。

闇の向こうで笑う影。
わたしはぞっとして、思わず強くしがみついた。
「何? どうしたんだよ、さっきから……」
平河が振り向く。
「バカ! 振り向くな! 危ないじゃない! ちゃんと前を見て運転してよ!」
わたしは怒鳴った。
そうだよ。ちゃんと前を見ていないと……心が迷子になっちゃう……。